加納明香の「風景」画
加納明香は一貫して風景を描いている。と言っても、現実の素晴らしい眺めを切り取り、これみよがしにどうだ、と見せるわけではない。それどころか、画布の上には淡くやわらかなタッチが連なるばかりで、山や木々、湖や家などの姿はすぐには見あたらない。抽象ではないかと言う人さえいるだろう。だが、そこにはあきらかに空間の気配があり、筆さばきや色の重なりを目で探り解きほぐしていくうちに、あいまいながらもたしかな奥行きが浮かんで、だんだんと風景が見えてくる。
この春、名古屋のギャラリーヴァルールで行われた個展では、実に多彩な眺めが並んでいた。たとえば画廊奥のつきあたりに掛かっていた、やや大ぶりの作品。画面の下方では左右から塊が迫り、その間を幅広い空隙が蛇行し上へと伸びてゆく。滑らかに導かれる視線は、だがその先、画面の上半分になると、垂直に立ち上がる空間が入り交じって、阻まれる。山道の途中で、足元からふと目をあげた途端、まわりの自然が間近に押し寄せてくる、そんな感覚も思い起こされる。別の縦長の作品では一転、小ぶりなストロークの集まりが上へ上へと積み上がり、ぐっと遠くを望むかのような風通しのよい眺めが広がっている。
時に身体的な感覚をも呼び覚ますこれらの絵の空間は、しかしどこまでも判然としきらない。じっさい加納は実景や再現的描写に拠らずに風景を描き出す。そして茫洋としているからこそ、具体的に感じられもするのだろう。はっきり見えないからこそ、私たちは見ようとする。徐々に見えてきても、なお定まりきらないから、さまざまな感覚も入り混じる。積極的にあいまいな加納の風景画は、とりわけ生身のまなざしを必要とする。何かを言い切ってしまわないゆるやかさが、絵の中を存分に目が漂い、風景を生成する時間を担保する。
さらに加納は絵の縁にもあいまいさを保とうとする。先の個展では、突如、風景が途切れることへの違和感から、画布を木枠に張り込まず、切りっぱなしの四辺のままボードに貼りつけることも試みていた。新たに今回は、大きさの違う画布を継ぎ合わせたり、描かれた風景の周囲にあえて異質な要素を描きこんだりもしているという。どうにかして絵の空間と現実の空間とを地続きにしようという目論見である。若き作り手の飽くなき挑戦が、果たしてどのような風景を見せてくれるのか、このたびの個展はとりわけ楽しみだ。
江上ゆか(兵庫県立美術館 学芸員)
(2021.10 極小美術館での個展フライヤーより)
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